とりあえず生きる

誰の得にもならない文章です

もやの中で

日付が変わってしまったが、更新。

高校の先生とか友人には、モヤモヤのまま色んな話しをしてきた。自分の考え、不思議なこと、納得いかないこと、不満、悩み、いろいろ。
でも、大学の教授にはなんか恥ずかしくてできない。本質を捉えるようなことを言わなければならない。人と違った視点から物事を言わなければならない。そんな焦燥感にも似た不安によく襲われる。

 

高校までの良い子、と、大学、ひいては社会に出た時の良い子は全く違うと思う。
高校までの良い子は、授業を真面目に聞いてる子、きちんとノートを取っている子、質問をしたら的確な答えを言ってくれる子、エトセトラ。個人的には、一番最後のものが大きな比重を占めていると思う。
大学や社会での良い子は、賢い子、他とは違った子。賢い子は、問題の核をつかめる子。最近の新卒のような人は、課題に対応する能力は高いが、自分で課題を見つけられない人が多いらしい。だから、自分で問題を見つけられて、しかもそれが本質を捉えているとなお良い、というわけ。他とは違った子は、もっとわかりやすくて、個性的な人。他の人とは違った考え方ができたり、独創的なことができたり、そんな感じ。

 

ありきたりな話ではあるけど、今までは求められてる答えに気づけるかどうかだったのに、自分で問題を見つけられなきゃだめだって言われて。今までは協調性ばかりを求められてきたのに、人と違う所を求められて。

 

別に、だから今までの教育はだめなんだ、とか、そういう風潮の社会は間違ってる、とかは思わない。ただ、少なくとも今の私は、今までの教育での良い子から全く抜け出せていない。多少賢いと思ってた。でも、それはどこかで「こういう答えを望んでるんでしょ」と思える答えを、さも自分で考えたかのように表現してるだけなんだと思う。
前に読んだ本で、自分で考えてみよう、と問われてる箇所があった。この本ではこれまでこういう事が述べられていたから、きっとこんな感じのことが答えじゃないか、と思ってページをめくると、本としての解答例とまさしく同じであった。その時は苦笑したが、型にはまった良い子を典型的に表していた事だった、と今更思う。

自分の頭で考えていないわけじゃない。でも、聞く側がいる、ということは、想定された答えがあるということだ。多分、私はそれを読み取るのがうまいんだと思う。だからそれがない時、私は何もできなくなる。
きっとそんなはずはない、と自尊心のかけらが叫ぶ。でも、少なくとも今の私はそんな感じ。卑屈とかではなく、真っ当な自己分析。

 

結局、何が言いたいのかというと、勉強しなさいよ、ってことなんだけど、私はこれから求められる良い子になれるのだろうか。なんだか先が暗い。