とりあえず生きる

誰の得にもならない文章です

諦めるということと、認めるということと

かつて、自己肯定感についてのことを書いていた。今振り返ってみるとと自己認識と他者認識がメインテーマだったと言えるかもしれない。その観点でいうと、今回は自己認識の話から始めてみたいと思う。

 

自分の欠点は、どう認識するべきなのだろうか。

最近、私は自分自身のある欠点に気付いた。それはもしかすれば人として致命的な欠陥なんじゃないかと思えるほどだった。私のその欠点は、考えれば考えるほどシステムの異常としか言いようがなかった。原因は分かっていても、今更どうしようもなかった。直したいけどすぐには直せない、そんな異常に気付いてしまった。

 

「異常」という言葉を安易に使うべきではないと思う。正常が本当に多数派なのか、本当に正しいのか、私には定かではない。そんな曖昧な正常に対しては、異常こそ正常かもしれないし、正常こそ異常かもしれない。正常も異常も不確かだ。

だけど、私はあえてこれを異常と呼びたい。それは私にとって由々しき問題であり、改善すべきであると思うからだ。とはいえ、これはあくまで自己認識であり、他者から見れば大した問題ではないのかもしれない。でも、私には異常と思えるこれを、なぜ大した問題ではないと思えるんだろう。

 

仮に、これがやはり異常であるとして、それでも大したことないといえるのはどうしてだろう。それを含めた私をどうして受け入れられるんだろう。

私は、存在を認められても、直すことを諦められないと思う。直せるなら直したい、でも直らない。だから辛くなるのだと思う。これをやめて、認めて受け入れれば楽になるのだろうか。

他者には直すことは不可能だろう。個人の問題だし、自分が相手なら直すなんておこがましいと思う。もしそうであるならば、他者は直せないからせめて受け入れるのだろうか。

 

自分対自分と、自分対相手ではこんなにも違う。それは自分も相手もそう。そして、その相対する時のやり方も人それぞれだろう。難しいなと思う。

最後がやけに幼稚だけど、みんなも難しいと思ってるのなら、私は救われるかもしれない。