とりあえず生きる

誰の得にもならない文章です

6月の目標

早いものでもう6月である。先月は無事に毎週ブログが更新できたので、ひとまず及第点。内容も充実すると良いのだけど、意外と文章を打つ気がおきない。そして、うまくまとまらない。記事を書くことを生業としてる人を改めて尊敬した。もしかしたら、ずっとウンウン唸っていればかけるのかもしれないが、そんな時間もいかないのが悲しきかな。まあ、学生の身であるから仕方ないわけだが。
そうは言いつつ、相変わらず無駄な時間が多い。意味のないSNSチェック、意味のないネットサーフィン。これを書いてる最中も見た。有意義に使うのみにとどめたいのは山々だが……。ともかく、これはどうにかして改善していきたいものである。

 

そんな風に、改善していきたいことはたくさんある。できるかどうかはともかく、意思を明確にすることもいいかなと思うので、「今月の目標」という形で意思を掲げていく。

 

・寝る前にその日の事を振り返る
・課題(予習)は前日までに終わらせる
・レポートは印刷前に見直しする
・自分から積極的に挨拶をする
インターンに申し込む
・布団で必要以上にスマホをいじらない
・ブログを最低週1で書く
・疑問や考えた事を見返せるように残す
・物事の根幹を考える
・とにかくシンプルに!

 

詰め込みすぎた気もするが、これらを目標に今月も生きていこう。

遠いようで、近い話

何かを"面白い"と思えることは大事らしい。この"面白い"は、お笑い番組を見てゲラゲラ笑うようなことではなくて、ガリレオの湯川先生が「実に面白い」って言っちゃうようなこと。つまりは、interestingなこと。

何か、っていうと漠然なので、「勉強したこと」、「授業で知ったこと」に置き換えてみる。
ただただ話を聞き流すだけじゃなくて、何か面白いなって思えること。それについてたくさん考えたり、調べたり、そうやって学んでいくのだと思う。


時に、興味を持てないこともあるだろう。それはアンテナの張り方の違いによるものだから、しょうがないと思う。でもアンテナがたくさんあればあるだけいいと思う。どうやったらアンテナが伸びるか、まだまだ不思議なのだけれど。

 

何か、は「社会の出来事」にも置き換えられる。
でも、社会の出来事だと、"面白い"じゃない感情を抱くことの方が多いのかもしれない。かわいそうとか、こわいとか、ひどいとか、遺憾だとか、社会の出来事なんでそんなことばっかり。そういう感情って、もしかしたら無関心と紙一重で、その感情から先には何も変わらないんじゃないかなあ、と思う。
"面白い"というには不謹慎なことももちろんある。でも関心を持っている人は、心のどこかでは、その出来事を知ることでワクワクする感情があって、考えたり、調べたりしている気がする。

 

この"面白い"アンテナ、これもある意味「社会学的想像力」だと思う。
前提の話を避けて、書きやすいところから書いた結果、意味が通じるのか不安になってきた。きっとそのうち詳しく書きます。

 

さて、5月が終わる。結局まだ前に進めてない。1歩。なにか1歩を踏み出す。来月の目標。

 

三日坊主

イントロを書いたくせに、それについて詳しく書く気力がなく、3週目にして早くも簡易更新。

ただ、タイトル通り3日坊主になるよりかはマシだ、と自分に言い聞かせる。

 

今の私が触れている世界は、大学とバイト先がメインだ。典型的な学生像。そこから先、どれだけ社会に目を向けられるか、そして、自分のこととして考えられるかが問題だ。

しかし、自分が将来触れていたいと思える世界を早く見つけたい。そのために、たくさんの世界に触れたい。

触れていない世界のことも考えるけど、触れる世界も増やしたい。なんか矛盾っぽいけど、必ずしも矛盾することでもないのかなと思う。

だって、どちらも「自分を広げている」行為に他ならないのだから。

 

どちらにせよ、立ち止まっている時間はあまりないらしい。怠惰な日々を早く乗り越えなければならない。

飛び出せ自分。

自分をひろげる

前回、前々回と教育のことを書いた。

しかし私は、教育に関して強い興味関心があるわけではない。つもり。なぜ「つもり」なのかというと、高校の頃から教育について考えることが多かったからだ。

 

教育について考えていた理由は、私が教育を受ける立場であったからだ。そして、今もその立場は変わらない。しかし、もし自分がその立場の人間でなくなったら、私は教育について考えることをやめる気がする。やめないまでも、考える頻度は確実に減るだろう。

つまり、私が考える対象とするものは、今自分が触れている世界ばかりなのだ。

 

しかしながら、生きて行く上で自分の触れている世界のことだけ気にしているのでは、どうやらダメみたいだ。

一人一人、自分の触れていない世界のことも考えられる力を持てた方が、より良い社会になる。その時、自分が触れていない世界のこととして考えるのではなく、自分が触れるかもしれない世界、と考えることが大事らしい。

 

自分が触れている世界のことから、自分が触れていない、でも触れるかもしれない世界のことまで、考えをひろげる。これを、「自分をひろげる」と言いたい。

 

「自分をひろげる」それはときに、楽しいことにもなり、辛いことにもなるものだと思う。けれど、ひろがった自分は、きっと今とは違った世界の見方をするだろう。それってなんだかワクワクする。

なんで自分をひろげなきゃいけないんだ、と思う自分もいる。でも、少しだけ、そのワクワクに賭けてみてもいいのかもしれない。

 

ということで、次の日曜のテーマは「自分をひろげる」。半分ぐらい大学の授業の受け売りだが、私がすごく気に入っている考え方。

でも、この考え方を教えてくれた授業は、どうも人気がないらしい。自分が偏屈だということだろうか………。大好きなんだけどなあ………。

 

高等教育 つづき

高等教育のお話。

 

前回の通り、大学は「課題探求能力の育成」を主として、専門的素養のある人材を育成する機関である。

これ自体は別にいい。大学は自分の興味のある分野に特化した勉強を行い、それに関する研究を行う場であると思っている。これは上記の事と大きく違わないだろう。

しかし、現実の大学はそのような場なのだろうか。

 

今、私は大学1年生だ。大学に入って専門的なことをたくさんやってるのかと思えば、まだまだ基礎的な科目ばかりである。そして初年度教育と呼ばれる部類の科目もいくつか受けている。その初年次教育の科目は「大学での学び方を学ぶ科目」である。これが私のひっかかりだ。そもそも、「学ぶため」に大学に来ているはずなのに、「学ぶための学び方を大学で学ぶ」という構造がわからない。

 

このままでは「学ぶ」という言葉でゲシュタルト崩壊しそうなので、少し方向を変える。上記で「学ぶため」に大学に来ているはず、と書いた。実のところ、そうでもないのかもしれない。

 

大学へ来る動機は様々だ。理想は「学びたいことを学ぶために大学へ行く」ことだ。しかし、大卒である方が就職する時に有利であるという印象が強く、「就職のために大学に行く」という動機を抱いている人も多いだろう。もしかしたら「遊ぶため」という人もいるかもしれない。

別に、「志を高く持て」と言いたいわけではない。だが、少なくとも、学ぶための学び方は意識した上で大学へ入る必要があるのではないか、と言いたい。そしてそれは大学入学以前に教育をするべきではないか、と思う。高大接続とか、大学入試改革とか、色々言われているが、一番大事なことはそこなのではないだろうか。

 

書いてると構想通りにいかない。別に啓蒙をしたかったわけでも、愚痴っぽくしたかったわけでもないのだけど。うーん文章力。もうちょっと書き方があった気がする。けど、日曜に間に合わないのであげる。

もうすぐ月曜日。

高等教育

大学は、高校までの教育機関とはガラリと趣が変わる。

高校までとは違うことは、個々に言えばたくさんある。しかし、最も大きな違いであり、個々の違いに強く影響している点は、大学は"高等教育を行う場"という点だと思う。

 


高等教育とは何か。例に漏れず辞書をひく。

【高等教育】
初等教育中等教育の学校教育を中核とする普通教育の基礎の上に位置づけられた、さらに精深な一般教養教育と高度な学問研究ならびに専門職業に必要な知識・技能を授ける教育。
(引用: 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) )

さらに調べてみると、文科省に高等教育に関するページがあった。

‪第1節 高等教育の役割‬
高等教育の役割については、以下のように考える。
(1)学部段階の教育
学部段階においては、初等中等教育における自ら学び、自ら考える力の育成を基礎に「課題探求能力の育成」を重視するとともに、専門的素養のある人材として活躍できる基礎的能力等を培うことを基本として、次のように教育内容を再構築する必要がある。
(引用: http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/old_chukyo/old_chukyo_index/toushin/attach/1309727.htm)

 

長いのでこの先は割愛するが、要は「課題探求能力の育成」を重視しつつ、専門的素養のある人材を育成することが高等教育の役割であるようだ。

 


この「課題探求能力」について。そして、そもそも大学での学びについて。これらが、最近の私のモヤモヤの多くを占めている。

 

と、ここまでイントロを書いて、案外長くなっているので、続きは日曜。
どうでもいいけど、引用するとやたらに文字数増えますね。バランスが難しい。あと、文字の見え方も思った通りに綺麗にいかない。

バランスバランス。

経済学の話

800字くらい書いた記事が消えてショックを隠せないでいる。しかし、決意表明後初の日曜からサボるわけにもいかないので、更新する。

 

私が学んでいる「経済学」の話。

みなさんは経済学というと何をイメージするだろうか。真っ先に「お金」のイメージが出てくる人が多いのではないか。私は小難しそうな学問だと思っていた。お金のことは特に考えていなかった。バカなだけかもしれないが。

 

改めて「経済」というとつかみどころがない。そこで、辞書をひいてみた。

 

けい‐ざい【経済】 の意味

㋐人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動。また、それらを通じて形成される社会関係。
㋑金銭のやりくり。「わが家の―は火の車だ」
㋒費用や手間のかからないこと。倹約。「弁当を持っていくほうが―だ」

(出典:デジタル大辞泉)

 

なるほど、先ほどのお金のイメージは㋑のことらしい。しかし、実は私が経済学を志した理由は㋐にあたる。

 

㋐を簡単にいうと「必要なモノを人々に適切に分配すること」と言える。「適切に」というと、配給みたいな感じがしてしまうので、もっと意訳して、「幸せになれるように」と言ってもいいかもしれない。

 

つまりは「必要なモノを人々が幸せになれるように分配すること」が「経済学」だと私は思う。そう教えられたから、経済学を志した。  結局ただの受け売りである。

 

こうした経済学のイメージはその通りだったようで、授業を受けていて「どれだけ幸福なれるか」ということが考えの中心にあるのを感じる。教授も時々そういう話をする。その度に、私が学びたかったのはこういうことなのだと思う。

 

「必要なモノを幸せになれるように分配する」

「どれだけ幸福なれるか」

このことが念頭にあれば、もっと経済学に良いイメージがつくのになあと思う。

なんとなく経済学をやろう、ではなく、人々の幸せを考える学問だから経済学をやろう、となる人が多い世の中だといいのに。