言葉にすること

お話をするのが苦手だ。おそらく普段の私を知る人は意外に思うかもしれないが、スマートさとは程遠く、大して面白くもない話をよくしてしまう。個人的には、文章の構成を組み立てるのが下手なんだなと思っている。昔から作文は嫌いだし、こうしてブログを書いてはいるが自分の文章はどうも好きになれない。

 

書いた言葉と違って、言ったことはパッと現れて、次の瞬間には消えている。だからといって何も残らないものかというと、聞いた相手はその言葉に強く拘束されることがままある。

言葉は暴力的だと思う。ときに、言葉は物理的なものよりひどく残酷であり、ひどく人を傷つけ殺すこともできる。寺山修司も似たようなことを言っていた。言葉で誰かを傷つけたい、なんて人は少ないだろうが、誰かに影響を与えたい人はいる気がする。しかし、そういう人は、良い影響だろうが悪い影響だろうが、その人に傷をつける覚悟があるのだろうか。

 

"影響を与える" という責任は重い。大きさは様々あれど、人生を180°変えることだってありうる。自分の放った一言が、その人を捉えて離さなくなることだってある。人はそれを押し付けというかもしれない。あるいは、束縛というかもしれない。わたしはそれが怖いのだ。

いつからだろう、人の話に対して、「いいんじゃない?」という言葉をよく使うようになったのは。なにを適当な、と怒る人もいるだろうが、その反応はもっともだ。わたしは、その人の何かに意見することを恐れているのだと思う。

仮に、自分だったら絶対にとらない行動があったとする。しかしそれはあくまで私の中の価値観の話であり、その人の中の価値観ではそうではないかもしれない。というか、そうではないからそういう選択肢を選んでいる/選ぼうとしているのだ。それを私がとやかく言う資格はないし、その後に対する責任なんて持ち合わせていない。だからわたしはその人を肯定するフリをして、距離を置く。これもあくまで私の中の価値観における考えであって、なにそれとなる人も大勢いることを知っている。

真摯に人の悩みと向き合い、導こうとする人間がなんと多いことか。"絶対○○するべきだよ" なんて、なにを根拠に言えるのか。でも、そういう人がいなければ、きっとこの世は迷える子羊だらけなんだろうなと思う。

 

この文章は何にもならないし、なってはならないと思う。でも、こうやって人目にさらすことで、誰かの何かになるのかもしれない。結局わたしは、私の言葉が、誰かの枷になり檻となることを心のどこかで望んでいるのだろう。

2018 ふりかえりのようなもの

怠惰の一年だった。やる気が起きない、何もやらない、ひたすら寝ていたい、そんな一年。良く言えばモラトリアムの謳歌、悪く言えばクズだなと思う。(そもそもこれを書くのすら全くやる気が湧かなかった)

なんとなく大学に通って、なんとなく話を聞いて、なんとなくバイトして、たまに部活して、そんな日々。高3の私が嫌っていた、なんとなくの大学生をやっている。

 


この書き出しから、つらつらと書いていたら途轍もなく暗い内容になっていた。

面倒くさい思考と、負のオーラ全開だった。

でも、寝て起きたらすこしだけ思考が前向きになっていたので載せることは見送る。、

 


怠惰な一年だったけど、何も考えてなかったわけではなくて、少しずつ考えている。自分のこととか、人間関係のこととか、将来のこととか。

来年は思考と実践を"頑張って"いきたい。

バイトも、大学も減らして、新しいことでも始めようかな。ちゃんと読書もしなきゃな、文章も書かなきゃな。なんて、毎年恒例の達成されない抱負を今年も語る。

 


一つだけ。

頑張るって、難しいなと。

頑張るとは、あることをなしとげようと、困難に耐えて努力する。ということらしい。つまり、具体的な目標とか意志とかがなければ、"頑張る"という行為は成立しないともとれる。

私は必死に生きてきたつもりだった。遅刻しないように通学してる、そこそこの成績をとって、バイトもやって、毎日疲れていた。ずっとずっと眠っていたかった。

 


でも、私は1ミリも頑張ってはいなかったのかもしれない。もちろん、場面場面で頑張っていたかもしれない。そんな風に切り捨ててしまうのは自分を否定することなのかもしれない。けれど、私はこの言葉に傷ついていない。だって、当然だなって。

人は傷つく時、期待や思い込みをしていて、それが裏切られた時に傷ができるんだと思う。私は、自分が頑張っているとも思ってないし、努力もしてない。だから傷つかない。

 


頑張る勇気が欲しい、力が欲しい。

満たされたように見える私に足りないものはなんなのか。

来年の私はどうやって生きていくのか。

どうしようね、私。

不幸せだと叫びたい

人生幸せな方がいい。きっとそう。

でも、ニコニコしながら「私は幸せです」と言う人をどう感じるかはまた別物だ。「私は不幸せだ」と笑いながら言えるくらいがちょうどいいと思う。

生きてりゃ負の感情が出ないわけがない。辛い、苦しい、憎い、エトセトラ。そうしたものを奥底にしまって、隠して、黙って、にこにこしているなんて、ひどく不健全ではないか。

負の感情を背負って、自分の性格の悪さもわかった上で、ああ世界はなんてめんどくさいんだって思いながら、それでも笑っていられる方がいい。

関心と無関心

よくある話。前にも似たようなことを書いたっけ。でもたぶん大事な話。

 

今日の朝、大阪で大きな地震があった。昨日も、群馬で大きな地震があった。今週は地震に注意した方がよいらしい。

群馬の地震は、友達のLINENEWSの通知で教えてもらった。そのあとはバイトに行ってしまい、なにかを考えたり思ったりすることはなかった。

大阪の地震は、シャワーを浴びリビングに戻った時、母親から教えてもらった。真っ先に、大阪に住む友人の安否を思った。

 

我ながら最低だなと思うが、群馬の地震はどうでもよくて、大阪の地震はどうでもよくないこと、になってしまっていた。どちらも大きな地震であることは変わらなく、不安な時間を過ごしている人々がいるというのに。

 

たとえ大地震が起きても、多くの人々は同情こそすれど、不安で夜も眠れなくなることはない。しかし、もしも自分の小指が明日なくなるとしたら、我々は不安で夜も眠れないだろう。

上記は昔の経済学者の考えについて、先生が述べてくれた例えだ。まさにこの通りだなと思う。我々はいつだって、自分のことでいっぱいいっぱいだ。知らない誰かのことなんて考えらないのも当たり前のことだ。でも、それが酷く残酷で寂しいものだと考えるとき、途方もない罪悪感と、無力感と、絶望を味わうに違いない。

 

そんな時、私と親しい人の存在は救いになる。知らない誰かは無理でも、親しい貴方のことは心配できる。巡り巡ってそれが自分のためだとしても、だ。それが関心を持つ一番の近道なのだなと感じる。

 

そういえば、群馬が実家の友人がいたなと思い出す。きっともうどうでもいいことではない。ニュースに一喜一憂して、その友人の故郷を思うことくらいはできる気がする。

 

 

散文とか

6月。梅雨の季節。

たくさんの本を買い込んだ。その中に穂村弘のエッセイがある。なんとなく、春や夏に彼の文章は似合わない。秋か、冬か、梅雨か。そんな彼の文章を読んでいたら、散文を書きたくなっていた。

 

ここ数日雨続きだ。私は雨自体は嫌いじゃない。雨の音は気分を穏やかにさせる。それに、憂鬱な私の気分と雨がピタリと合うと、なんだか嬉しくなる。お前も寂しいんだね、って。だけど外へ出たら濡れてしまうから雨の日の外出は嫌いだ。雨の日は家で静かに過ごすに限る。

晴れは好き嫌いに対象になりにくいのに、雨だけはいつも好きか嫌いかの二択だと思う。でも私は、地理学とか生物学とか、そんなの関係なしに、雨の日も大事だと思う。

雨が降れば、少し家でゆっくり過ごそうかなと思える。雨が降れば、好きなあの子と相合傘ができる(かも)。雨が降れば、憂鬱な気分を雨のせいにできる。

 

何かを雨のせいにするのは雨のせいにできない何かから逃げているだけなのかもしれない。それでも、たまには何かのせいにして逃げたっていいと思う。

雨も、たまには悪くない。

 

たくさんの私と肯定と

5月。

世間では五月病が流行っているらしい。そんな私は機嫌が良く、比較的情緒も安定している。まあ、相変わらず病んだり、持ち直したりの繰り返しだけど。

なんにせよ、こういう時は幸せな気分になりやすい。無条件に幸せ爆発してる時は思考が進まない、進める気すらおきない、そんな状態になる。少し何かを疑問に思ったり、考えたりできる、今の私ぐらいがちょうどいい。

 

肯定されたい。多分、多くの人が持っている欲求。こう言うとなんだかメンヘラっぽいけど、認められたいとか、褒められたいとか、愛されたいとか。そんな感情の大元が肯定されたい気持ちだと思っている。

 

そのくせ私は自己肯定感が低い。誰かに褒められても、それを自分自身で認めることができない。「でも」、「そんなことない」、「とんでもない」口をついて出てくる言葉。本当の私は褒められてる私とは違うものだ。本当の私は褒められるに値しない。でも、本当の私ってなんなんだろう。

 

私だけが知っている私が確かにいるのかもしれない。でもそれなら、相手だけが知っている私もいていいはずじゃないか。色んな私がいて、でもそのどれも私なんだ。私が思う私だけが全てじゃない。心理テストで現れる私も全てじゃない。相手も私の全てを知っているわけじゃない。

 

だからこそ、素直に全てを受け入れるべきなのだ。否定せず、ああそういうところもあるのか、と。

そして、素直に受け入れてくれる人と過ごすべきなのだ。めんどくさい私でも、それでいいと言ってくれる人がいればそれでいいのだ。

 

 

 

4/20

20歳になった。
昨日、早速お酒を買った。日付が変わるまで夜の街を徘徊して、日付が変わってすぐにコンビニでプレミアムモルツを買った。年齢確認もされず、機械的に画面をタッチして、いとも呆気なく儀式のようなものを終えた。

日付を超えても私は何も変わらない。モルツを買った私と、買う前の私に何も違いはない。ただ、日付が変わっただけ。時計の針が12時を超えただけ。それなのに、私は成人という称号を手に入れた。私はもうお酒もタバコも自由に買えるのだ。でも、そんなものに意味はあるのだろうか。私は何も変わってないのに。

 

大人ってなんだろう。青年期の私はまだまだ大人じゃない。それは、社会的にも、私自身にとっても。授業で、「あなたは大人だと思いますか?」と聞かれた。私は、まだ大人じゃない。それは、学生だからとか、扶養されてるからとか、そんなんじゃなくて。今の私には本当の意味での居場所も進む先もないから。だから大人じゃない。
いつかは大人にならなきゃいけない。それが社会の要請らしい。大人になりたくないとは言わない。子どもがいいとも思わない。だけど、私は大人になれるのだろうか。色んなことを諦めずにいられるのだろうか。

便宜上、今日の何時かに生まれたから、今日が誕生日で、今年は20歳だから日付が変わるとともに成人になった。でも、それ自体に意味はない。昔は数え年だったし、あくまで今の仕組みが20歳の誕生日に成人という称号与えているだけ。しかも数年後には18歳に与えられるようになるらしい。結局、そこにあるのは成人という称号を与えるシステムだけなんだと思う。

 

ただ、18歳にしろ、20歳にしろ、誕生日ほど素敵な日はない。手放しで「おめでとう」と言ってもらえる。「おめでとう」って素直に言える時は意外と少ない。その言葉に含みがあることが大半で、その含みは嫌な感情であることが多い。だから、やっぱり誕生日は特別だと思う。

20歳になるのが嫌だったり、楽しみだったり、色んな気持ちを抱えていたけれど、なってしまえばあっけないもので、今は素直に誕生日と、祝ってくれる友人とその言葉が素直に嬉しい。今年の誕生日も。そして多分これからも。