たくさんの私と肯定と

5月。

世間では五月病が流行っているらしい。そんな私は機嫌が良く、比較的情緒も安定している。まあ、相変わらず病んだり、持ち直したりの繰り返しだけど。

なんにせよ、こういう時は幸せな気分になりやすい。無条件に幸せ爆発してる時は思考が進まない、進める気すらおきない、そんな状態になる。少し何かを疑問に思ったり、考えたりできる、今の私ぐらいがちょうどいい。

 

肯定されたい。多分、多くの人が持っている欲求。こう言うとなんだかメンヘラっぽいけど、認められたいとか、褒められたいとか、愛されたいとか。そんな感情の大元が肯定されたい気持ちだと思っている。

 

そのくせ私は自己肯定感が低い。誰かに褒められても、それを自分自身で認めることができない。「でも」、「そんなことない」、「とんでもない」口をついて出てくる言葉。本当の私は褒められてる私とは違うものだ。本当の私は褒められるに値しない。でも、本当の私ってなんなんだろう。

 

私だけが知っている私が確かにいるのかもしれない。でもそれなら、相手だけが知っている私もいていいはずじゃないか。色んな私がいて、でもそのどれも私なんだ。私が思う私だけが全てじゃない。心理テストで現れる私も全てじゃない。相手も私の全てを知っているわけじゃない。

 

だからこそ、素直に全てを受け入れるべきなのだ。否定せず、ああそういうところもあるのか、と。

そして、素直に受け入れてくれる人と過ごすべきなのだ。めんどくさい私でも、それでいいと言ってくれる人がいればそれでいいのだ。

 

 

 

4/20

20歳になった。
昨日、早速お酒を買った。日付が変わるまで夜の街を徘徊して、日付が変わってすぐにコンビニでプレミアムモルツを買った。年齢確認もされず、機械的に画面をタッチして、いとも呆気なく儀式のようなものを終えた。

日付を超えても私は何も変わらない。モルツを買った私と、買う前の私に何も違いはない。ただ、日付が変わっただけ。時計の針が12時を超えただけ。それなのに、私は成人という称号を手に入れた。私はもうお酒もタバコも自由に買えるのだ。でも、そんなものに意味はあるのだろうか。私は何も変わってないのに。

 

大人ってなんだろう。青年期の私はまだまだ大人じゃない。それは、社会的にも、私自身にとっても。授業で、「あなたは大人だと思いますか?」と聞かれた。私は、まだ大人じゃない。それは、学生だからとか、扶養されてるからとか、そんなんじゃなくて。今の私には本当の意味での居場所も進む先もないから。だから大人じゃない。
いつかは大人にならなきゃいけない。それが社会の要請らしい。大人になりたくないとは言わない。子どもがいいとも思わない。だけど、私は大人になれるのだろうか。色んなことを諦めずにいられるのだろうか。

便宜上、今日の何時かに生まれたから、今日が誕生日で、今年は20歳だから日付が変わるとともに成人になった。でも、それ自体に意味はない。昔は数え年だったし、あくまで今の仕組みが20歳の誕生日に成人という称号与えているだけ。しかも数年後には18歳に与えられるようになるらしい。結局、そこにあるのは成人という称号を与えるシステムだけなんだと思う。

 

ただ、18歳にしろ、20歳にしろ、誕生日ほど素敵な日はない。手放しで「おめでとう」と言ってもらえる。「おめでとう」って素直に言える時は意外と少ない。その言葉に含みがあることが大半で、その含みは嫌な感情であることが多い。だから、やっぱり誕生日は特別だと思う。

20歳になるのが嫌だったり、楽しみだったり、色んな気持ちを抱えていたけれど、なってしまえばあっけないもので、今は素直に誕生日と、祝ってくれる友人とその言葉が素直に嬉しい。今年の誕生日も。そして多分これからも。

新年度

やはり大学があるとバタバタとする。春休みののんびりとした日常を返して欲しい。本来はあれが非日常だったわけだが。

 

新年度になった。去年ほど大きな変化はなく、無事に2年生になった。今の期間は、人混みや勧誘に辟易した新入生に同情しつつ、私も新歓活動に勤しんでいる。

 

2年生になり、近しい人や同級生が重要なポジションをになっていくようになった。私も例には漏れていないが、幸いそこまで職務に追われずにいる。だからこそ、疲れていく人たちを見て複雑な気持ちになる。"もっとあなたが疲れないようにうまくやればいいのに" そう思ってしまう。でも、きっと私が貴方の所にいたら同じことをして、同じ状態になってるのでしょうね。やっぱり背負う人間と、背負わない人間の違いなんだと思い知る。そんなもんだと思えない私は、勝手に傷ついて被害者面してる偽善者だと思う。

 

自分が一番疲れてるぐらいがちょうどいい。よくないことだとはわかっているのだけど、その方が楽だなとよく思う。こういう思考がダメなんだよね。知ってる。知ってるんだよ。

 

病んでるみたいだけど病んでないから!!!

でも新年度の決意とか爽やかな文章が書けなかったのは事実。筆不精とモヤモヤが相まって、気持ちの悪い文章だけど、私のための文章なので許してほしい。

私は私のために答えを探す。それがあわよくば人の助けにもなればいい。そんなもん。そんなもん。

こじらせないdays 6日目

6日目

残念ながらあまり思考できていない。一日バイトだったから仕方ない仕方ない。更新も諦めかけていたが、この時間になって逆に目が冴えてしまった。早く寝たい。

 

とここまで書いて寝落ちしていた。

だが、せっかく6日目まできたので一応更新する。そもそも日付上は問題ないからこんな前置きもいらないのだけれど、私の気持ちの中では「一応」なのだ。できれば深夜に更新したかった。どんなに眠くても。

 

一度途切れたことを始めるのがなんだか辛い。今、この文章を書いている瞬間も胸がざわざわしている。

"5回もちゃんと更新できたのに"

心のどこかでそう思っているのかもしれない。

 

そもそもブログを再開することも大変だった。何度かまた書こうと思ったことはあった。しかし、毎週更新をうそぶいていたクセにつづけられなかった事実が、じりじりと痛んでうまく書けなかった。

はじめたのにどこかでサボってそのまま、ということがたくさんある。ブログ、日記、勉強、誰かとのLINE、たぶんもっとたくさん。なぜ気軽に再び始めることができないのか。なぜこんなにも腰が重く、胸がうずくのか。

 

完璧主義だと言われたことがある。自覚はあるようでない。適当で、大雑把で、感覚的で、勢いとノリ任せばかりで、そんな私が完璧主義などおこがましい。今でもそう思う。

一方、どこかで汚点を見せてはいけないと思ってる節もある。自慢じゃないが、基本スキルは高い方であると思う。特に何もしていないが、なんとなくできてしまうことがそこそこある。でも、一度うまくいかなかったことはもうやりたくないと思ってしまう。辛いことはなるべく逃げようとしてしまう。それに立ち向かうエネルギーがないからだ。失敗の恥をかくくらいなら、適当なところでやめておいたほうがいい。そう思っている。

 

じゃあこれは誰のためにやっているのか。私がやりたくてやってることじゃないのか。わからない。

ブログなど謎だ。全世界に発信してるクセに、内容は極めて私的だ。こんなものを人に見せて何になるのか。備忘録なら日記でいいのではないか。わからない。

でも、今の私はやりたいからやっている。誰かのためではなく、私のために。心の掃き溜めと変わらない。でもそれでいい。それが今の私のやりたいことだから。

 

 

7日目である今日は何もなかった。でも何も考えていない。ただ寝ていた。もう悪びれない。

これから私は伝えるため思考をする。深く、深く、めんどくさいぐらいに。そして、素直になろうと思う。

 

最終総括的な文を書くかもしれないし、全く関係ないことを書くかもしれないけれど、ブログは細々と続けようと思う。私のために、ね。

もしよろしければたまに見てもらえると、これ幸いである。じゃあ、また今度。

こじらせないdays 5日目

5日目

私はわりとめんどくさがりなタイプである。挙げればきりがないほど、色々なことをめんどくさがっている。そのせいで何かをやっていない罪悪感によく駆られる。多くの人に共感してもらえることだとは思うが、つい後回しにしてしまうアレである。

そんな私だが、思考に関してはいくら考えようとめんどくさいとは思わない。むしろ、色々なことを考えすぎて、自分の考えとして言語化できないことがよくある。めんどくさがりなのに、他から見てめんどくさいぐらいの思考を、めんどくさがらずにしている。ゲシュタルト崩壊しそうなめんどくさい文章だ。

しかしこう考えてみると、自分のことだがさっぱり訳がわからない。身体を動かさないからだろうか。多分そんな単純な話じゃない。

 

思考を張り巡らせる事は嫌いじゃない。むしろ好きだ。ただ考えすぎで辛くなることも多い。行き着く所が先の見えない暗闇であることが少なくないからだ。ここ最近は暗い方に行きにくい時期でもあり、そうなりそうな時は「めんどくさい」を合言葉に思考を断ち切っている。常にそうありたい。

要するに、ポジティブシンキングと、客観視さえできれば私の思考は長所になりうる物なんだと思う。

 

でも、不安じゃん。相手の気持ちなんてわからないんだもの。これがめんどくさい私。いつかバイバイしたい。やっぱ、まだ無理かも。

明日につづけ。

こじらせないdays 4日目

4日目

今日のはじまりも夢だった。中学の時の恩師が出てくる夢だった。細かい内容は忘れてしまったが、とても幸せなものだったと覚えている。

その方にはすごくお世話になったのに、離任の際に話をすることも、お礼を言うこともできなかった。あれから5年以上経ったが、私にはたくさん伝えたいことがある。離任式の日、お礼が言えなかっただけで、私は貴方に縛られている。

 

何か小さなことが、これからの人生の後悔の種子になりそうで怖くなる。だから、やる前からたくさん考えてしまうし、やってしまったこともクヨクヨ悩んでしまう。その根元がおそらくこの経験にあるのだと思う。だから私は、今できる最善の方法で最大の気持ちを伝えたい。まあ、それがすぐにできれば苦労しないんだけれど。

 

現実では母校の卒業式があり、懲りずにまた顔を出した。とはいえ卒業生と交流するわけでもなく、1年ぶりに会った先生とたくさんの話をしていた。

先生の話し方に懐かしさを覚えながら、色々な考え方があって、色々な事情があって、それらを考える必要があると改めて感じた。もしかしたら、実は先生の思考もめんどくさいのかもしれない。でも、私はたくさんのことを考えてくれている先生を素直に尊敬したし、そういう考え方がきちんとできる人間になりたいと思った。

結局、自分の場合は悪いことばかりを考えてしまい、それがこじらせ思考につながっているのだろう。自分のことだと冷静になれない。まだまだ子供だと思う。

 

先生と「めんどくさい」について少しだけ話をした。めんどくさいにも色んな種類があるが、大きくまとめると自分にとって受け入れられない人はめんどくさい人になるらしい。そもそもめんどくさいは自分の感情であるわけで、めんどくさい人って言うのかよ、めんどくさい人ってなんだよ、と思った。でも、今の私はめんどくさい人間にならないためにこんなブログを書いている。矛盾だ。めんどくさいって思われないように、そう考えること自体意味がないのかもしれない。

私のめんどくさいは私の中にしか生まれないし、相手のめんどくさいも相手の中にしか生まれない。だからわかるわけがない。そんなことを気にするのは、めんどくさいというより、意味がない。なんとなく、気づいてしまった、かも。脱めんどくさいできるかな。

 

今日はたくさんしゃべったし、考えたし、感じたし、それに楽しかった。いい日だ。あと3回。また明日。

こじらせないdays 3日目

3日目

こじらせないようにしているおかげなのか、それともただの周期なのか。どちらにせよ、いま素直に幸せを感じることができているなあと思えている。素直だと思考も軽くなるようで、自然と前向きでいられた。結局考えてしまっているわけだけど、深くないし、暗くないし、これならきっとセーフ。それに、そうやって想っている私は幸せだ。間違いなく。

素直でいることって、心が穏やかでないと難しいと思う。後ろ向きな時も無理だし、意固地な時も無理だし、なかなかに大変だ。ましてや、天邪鬼な私では尚更だろう。幼子のような無垢な心でいたい。成人を目前にしてそう願うなんて思ってもみなかった。

 

早く大人になりたい。早く独り立ちしたい。ずっとそう思っていた。今も思っていないわけではない。とはいえ、将来について考えるのが不安で、夢もなくて、ずっと学生というモラトリアムが続けばいいと、大学に入った私は思ってしまった。高校の時とは大違いだ。早く社会に出て人の役に立ちたい。そう意気込んでいた彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。今の私は、次の時間割を組むことですら悩んでいるというのに。ずっと憧れていた一人暮らしも現実問題を考えると尻込みしてしまい、独り立ちには程遠い。いつからこうなってしまったのだろう。

 

「今を生きろ」なんてよく言うけれど、今じゃ「もっとちゃんと将来のことを考えろ」って怒られることの方が多くて。「夢を見ろ」なんてよく言うけれど、実際は「現実を見ろ」って言われることの方が多い。矛盾してるけど、多分ほんとはどっちも大事で、どっちもやらなきゃいけないことなんだろう。でも、不器用な私にはなんだかそれが難しい。今を生きたいのに、夢を見たいのに、将来のことを考えてない自分に嫌気がさし、現実に向き合っては辛くなる。ただ、能天気に幸せを感じていたいだけなのに。手先も人生も器用でありたい。

 

明日につづく。