不幸せだと叫びたい

人生幸せな方がいい。きっとそう。

でも、ニコニコしながら「私は幸せです」と言う人をどう感じるかはまた別物だ。「私は不幸せだ」と笑いながら言えるくらいがちょうどいいと思う。

生きてりゃ負の感情が出ないわけがない。辛い、苦しい、憎い、エトセトラ。そうしたものを奥底にしまって、隠して、黙って、にこにこしているなんて、ひどく不健全ではないか。

負の感情を背負って、自分の性格の悪さもわかった上で、ああ世界はなんてめんどくさいんだって思いながら、それでも笑っていられる方がいい。

関心と無関心

よくある話。前にも似たようなことを書いたっけ。でもたぶん大事な話。

 

今日の朝、大阪で大きな地震があった。昨日も、群馬で大きな地震があった。今週は地震に注意した方がよいらしい。

群馬の地震は、友達のLINENEWSの通知で教えてもらった。そのあとはバイトに行ってしまい、なにかを考えたり思ったりすることはなかった。

大阪の地震は、シャワーを浴びリビングに戻った時、母親から教えてもらった。真っ先に、大阪に住む友人の安否を思った。

 

我ながら最低だなと思うが、群馬の地震はどうでもよくて、大阪の地震はどうでもよくないこと、になってしまっていた。どちらも大きな地震であることは変わらなく、不安な時間を過ごしている人々がいるというのに。

 

たとえ大地震が起きても、多くの人々は同情こそすれど、不安で夜も眠れなくなることはない。しかし、もしも自分の小指が明日なくなるとしたら、我々は不安で夜も眠れないだろう。

上記は昔の経済学者の考えについて、先生が述べてくれた例えだ。まさにこの通りだなと思う。我々はいつだって、自分のことでいっぱいいっぱいだ。知らない誰かのことなんて考えらないのも当たり前のことだ。でも、それが酷く残酷で寂しいものだと考えるとき、途方もない罪悪感と、無力感と、絶望を味わうに違いない。

 

そんな時、私と親しい人の存在は救いになる。知らない誰かは無理でも、親しい貴方のことは心配できる。巡り巡ってそれが自分のためだとしても、だ。それが関心を持つ一番の近道なのだなと感じる。

 

そういえば、群馬が実家の友人がいたなと思い出す。きっともうどうでもいいことではない。ニュースに一喜一憂して、その友人の故郷を思うことくらいはできる気がする。

 

 

散文とか

6月。梅雨の季節。

たくさんの本を買い込んだ。その中に穂村弘のエッセイがある。なんとなく、春や夏に彼の文章は似合わない。秋か、冬か、梅雨か。そんな彼の文章を読んでいたら、散文を書きたくなっていた。

 

ここ数日雨続きだ。私は雨自体は嫌いじゃない。雨の音は気分を穏やかにさせる。それに、憂鬱な私の気分と雨がピタリと合うと、なんだか嬉しくなる。お前も寂しいんだね、って。だけど外へ出たら濡れてしまうから雨の日の外出は嫌いだ。雨の日は家で静かに過ごすに限る。

晴れは好き嫌いに対象になりにくいのに、雨だけはいつも好きか嫌いかの二択だと思う。でも私は、地理学とか生物学とか、そんなの関係なしに、雨の日も大事だと思う。

雨が降れば、少し家でゆっくり過ごそうかなと思える。雨が降れば、好きなあの子と相合傘ができる(かも)。雨が降れば、憂鬱な気分を雨のせいにできる。

 

何かを雨のせいにするのは雨のせいにできない何かから逃げているだけなのかもしれない。それでも、たまには何かのせいにして逃げたっていいと思う。

雨も、たまには悪くない。

 

たくさんの私と肯定と

5月。

世間では五月病が流行っているらしい。そんな私は機嫌が良く、比較的情緒も安定している。まあ、相変わらず病んだり、持ち直したりの繰り返しだけど。

なんにせよ、こういう時は幸せな気分になりやすい。無条件に幸せ爆発してる時は思考が進まない、進める気すらおきない、そんな状態になる。少し何かを疑問に思ったり、考えたりできる、今の私ぐらいがちょうどいい。

 

肯定されたい。多分、多くの人が持っている欲求。こう言うとなんだかメンヘラっぽいけど、認められたいとか、褒められたいとか、愛されたいとか。そんな感情の大元が肯定されたい気持ちだと思っている。

 

そのくせ私は自己肯定感が低い。誰かに褒められても、それを自分自身で認めることができない。「でも」、「そんなことない」、「とんでもない」口をついて出てくる言葉。本当の私は褒められてる私とは違うものだ。本当の私は褒められるに値しない。でも、本当の私ってなんなんだろう。

 

私だけが知っている私が確かにいるのかもしれない。でもそれなら、相手だけが知っている私もいていいはずじゃないか。色んな私がいて、でもそのどれも私なんだ。私が思う私だけが全てじゃない。心理テストで現れる私も全てじゃない。相手も私の全てを知っているわけじゃない。

 

だからこそ、素直に全てを受け入れるべきなのだ。否定せず、ああそういうところもあるのか、と。

そして、素直に受け入れてくれる人と過ごすべきなのだ。めんどくさい私でも、それでいいと言ってくれる人がいればそれでいいのだ。

 

 

 

4/20

20歳になった。
昨日、早速お酒を買った。日付が変わるまで夜の街を徘徊して、日付が変わってすぐにコンビニでプレミアムモルツを買った。年齢確認もされず、機械的に画面をタッチして、いとも呆気なく儀式のようなものを終えた。

日付を超えても私は何も変わらない。モルツを買った私と、買う前の私に何も違いはない。ただ、日付が変わっただけ。時計の針が12時を超えただけ。それなのに、私は成人という称号を手に入れた。私はもうお酒もタバコも自由に買えるのだ。でも、そんなものに意味はあるのだろうか。私は何も変わってないのに。

 

大人ってなんだろう。青年期の私はまだまだ大人じゃない。それは、社会的にも、私自身にとっても。授業で、「あなたは大人だと思いますか?」と聞かれた。私は、まだ大人じゃない。それは、学生だからとか、扶養されてるからとか、そんなんじゃなくて。今の私には本当の意味での居場所も進む先もないから。だから大人じゃない。
いつかは大人にならなきゃいけない。それが社会の要請らしい。大人になりたくないとは言わない。子どもがいいとも思わない。だけど、私は大人になれるのだろうか。色んなことを諦めずにいられるのだろうか。

便宜上、今日の何時かに生まれたから、今日が誕生日で、今年は20歳だから日付が変わるとともに成人になった。でも、それ自体に意味はない。昔は数え年だったし、あくまで今の仕組みが20歳の誕生日に成人という称号与えているだけ。しかも数年後には18歳に与えられるようになるらしい。結局、そこにあるのは成人という称号を与えるシステムだけなんだと思う。

 

ただ、18歳にしろ、20歳にしろ、誕生日ほど素敵な日はない。手放しで「おめでとう」と言ってもらえる。「おめでとう」って素直に言える時は意外と少ない。その言葉に含みがあることが大半で、その含みは嫌な感情であることが多い。だから、やっぱり誕生日は特別だと思う。

20歳になるのが嫌だったり、楽しみだったり、色んな気持ちを抱えていたけれど、なってしまえばあっけないもので、今は素直に誕生日と、祝ってくれる友人とその言葉が素直に嬉しい。今年の誕生日も。そして多分これからも。

新年度

やはり大学があるとバタバタとする。春休みののんびりとした日常を返して欲しい。本来はあれが非日常だったわけだが。

 

新年度になった。去年ほど大きな変化はなく、無事に2年生になった。今の期間は、人混みや勧誘に辟易した新入生に同情しつつ、私も新歓活動に勤しんでいる。

 

2年生になり、近しい人や同級生が重要なポジションをになっていくようになった。私も例には漏れていないが、幸いそこまで職務に追われずにいる。だからこそ、疲れていく人たちを見て複雑な気持ちになる。"もっとあなたが疲れないようにうまくやればいいのに" そう思ってしまう。でも、きっと私が貴方の所にいたら同じことをして、同じ状態になってるのでしょうね。やっぱり背負う人間と、背負わない人間の違いなんだと思い知る。そんなもんだと思えない私は、勝手に傷ついて被害者面してる偽善者だと思う。

 

自分が一番疲れてるぐらいがちょうどいい。よくないことだとはわかっているのだけど、その方が楽だなとよく思う。こういう思考がダメなんだよね。知ってる。知ってるんだよ。

 

病んでるみたいだけど病んでないから!!!

でも新年度の決意とか爽やかな文章が書けなかったのは事実。筆不精とモヤモヤが相まって、気持ちの悪い文章だけど、私のための文章なので許してほしい。

私は私のために答えを探す。それがあわよくば人の助けにもなればいい。そんなもん。そんなもん。

こじらせないdays 6日目

6日目

残念ながらあまり思考できていない。一日バイトだったから仕方ない仕方ない。更新も諦めかけていたが、この時間になって逆に目が冴えてしまった。早く寝たい。

 

とここまで書いて寝落ちしていた。

だが、せっかく6日目まできたので一応更新する。そもそも日付上は問題ないからこんな前置きもいらないのだけれど、私の気持ちの中では「一応」なのだ。できれば深夜に更新したかった。どんなに眠くても。

 

一度途切れたことを始めるのがなんだか辛い。今、この文章を書いている瞬間も胸がざわざわしている。

"5回もちゃんと更新できたのに"

心のどこかでそう思っているのかもしれない。

 

そもそもブログを再開することも大変だった。何度かまた書こうと思ったことはあった。しかし、毎週更新をうそぶいていたクセにつづけられなかった事実が、じりじりと痛んでうまく書けなかった。

はじめたのにどこかでサボってそのまま、ということがたくさんある。ブログ、日記、勉強、誰かとのLINE、たぶんもっとたくさん。なぜ気軽に再び始めることができないのか。なぜこんなにも腰が重く、胸がうずくのか。

 

完璧主義だと言われたことがある。自覚はあるようでない。適当で、大雑把で、感覚的で、勢いとノリ任せばかりで、そんな私が完璧主義などおこがましい。今でもそう思う。

一方、どこかで汚点を見せてはいけないと思ってる節もある。自慢じゃないが、基本スキルは高い方であると思う。特に何もしていないが、なんとなくできてしまうことがそこそこある。でも、一度うまくいかなかったことはもうやりたくないと思ってしまう。辛いことはなるべく逃げようとしてしまう。それに立ち向かうエネルギーがないからだ。失敗の恥をかくくらいなら、適当なところでやめておいたほうがいい。そう思っている。

 

じゃあこれは誰のためにやっているのか。私がやりたくてやってることじゃないのか。わからない。

ブログなど謎だ。全世界に発信してるクセに、内容は極めて私的だ。こんなものを人に見せて何になるのか。備忘録なら日記でいいのではないか。わからない。

でも、今の私はやりたいからやっている。誰かのためではなく、私のために。心の掃き溜めと変わらない。でもそれでいい。それが今の私のやりたいことだから。

 

 

7日目である今日は何もなかった。でも何も考えていない。ただ寝ていた。もう悪びれない。

これから私は伝えるため思考をする。深く、深く、めんどくさいぐらいに。そして、素直になろうと思う。

 

最終総括的な文を書くかもしれないし、全く関係ないことを書くかもしれないけれど、ブログは細々と続けようと思う。私のために、ね。

もしよろしければたまに見てもらえると、これ幸いである。じゃあ、また今度。