とりあえず生きる

誰の得にもならない文章です

言葉にすること

お話をするのが苦手だ。おそらく普段の私を知る人は意外に思うかもしれないが、スマートさとは程遠く、大して面白くもない話をよくしてしまう。個人的には、文章の構成を組み立てるのが下手なんだなと思っている。昔から作文は嫌いだし、こうしてブログを書いてはいるが自分の文章はどうも好きになれない。

 

書いた言葉と違って、言ったことはパッと現れて、次の瞬間には消えている。だからといって何も残らないものかというと、聞いた相手はその言葉に強く拘束されることがままある。

言葉は暴力的だと思う。ときに、言葉は物理的なものよりひどく残酷であり、ひどく人を傷つけ殺すこともできる。寺山修司も似たようなことを言っていた。言葉で誰かを傷つけたい、なんて人は少ないだろうが、誰かに影響を与えたい人はいる気がする。しかし、そういう人は、良い影響だろうが悪い影響だろうが、その人に傷をつける覚悟があるのだろうか。

 

"影響を与える" という責任は重い。大きさは様々あれど、人生を180°変えることだってありうる。自分の放った一言が、その人を捉えて離さなくなることだってある。人はそれを押し付けというかもしれない。あるいは、束縛というかもしれない。わたしはそれが怖いのだ。

いつからだろう、人の話に対して、「いいんじゃない?」という言葉をよく使うようになったのは。なにを適当な、と怒る人もいるだろうが、その反応はもっともだ。わたしは、その人の何かに意見することを恐れているのだと思う。

仮に、自分だったら絶対にとらない行動があったとする。しかしそれはあくまで私の中の価値観の話であり、その人の中の価値観ではそうではないかもしれない。というか、そうではないからそういう選択肢を選んでいる/選ぼうとしているのだ。それを私がとやかく言う資格はないし、その後に対する責任なんて持ち合わせていない。だからわたしはその人を肯定するフリをして、距離を置く。これもあくまで私の中の価値観における考えであって、なにそれとなる人も大勢いることを知っている。

真摯に人の悩みと向き合い、導こうとする人間がなんと多いことか。"絶対○○するべきだよ" なんて、なにを根拠に言えるのか。でも、そういう人がいなければ、きっとこの世は迷える子羊だらけなんだろうなと思う。

 

この文章は何にもならないし、なってはならないと思う。でも、こうやって人目にさらすことで、誰かの何かになるのかもしれない。結局わたしは、私の言葉が、誰かの枷になり檻となることを心のどこかで望んでいるのだろう。