関心と無関心

よくある話。前にも似たようなことを書いたっけ。でもたぶん大事な話。

 

今日の朝、大阪で大きな地震があった。昨日も、群馬で大きな地震があった。今週は地震に注意した方がよいらしい。

群馬の地震は、友達のLINENEWSの通知で教えてもらった。そのあとはバイトに行ってしまい、なにかを考えたり思ったりすることはなかった。

大阪の地震は、シャワーを浴びリビングに戻った時、母親から教えてもらった。真っ先に、大阪に住む友人の安否を思った。

 

我ながら最低だなと思うが、群馬の地震はどうでもよくて、大阪の地震はどうでもよくないこと、になってしまっていた。どちらも大きな地震であることは変わらなく、不安な時間を過ごしている人々がいるというのに。

 

たとえ大地震が起きても、多くの人々は同情こそすれど、不安で夜も眠れなくなることはない。しかし、もしも自分の小指が明日なくなるとしたら、我々は不安で夜も眠れないだろう。

上記は昔の経済学者の考えについて、先生が述べてくれた例えだ。まさにこの通りだなと思う。我々はいつだって、自分のことでいっぱいいっぱいだ。知らない誰かのことなんて考えらないのも当たり前のことだ。でも、それが酷く残酷で寂しいものだと考えるとき、途方もない罪悪感と、無力感と、絶望を味わうに違いない。

 

そんな時、私と親しい人の存在は救いになる。知らない誰かは無理でも、親しい貴方のことは心配できる。巡り巡ってそれが自分のためだとしても、だ。それが関心を持つ一番の近道なのだなと感じる。

 

そういえば、群馬が実家の友人がいたなと思い出す。きっともうどうでもいいことではない。ニュースに一喜一憂して、その友人の故郷を思うことくらいはできる気がする。