とりあえず生きる

誰の得にもならない文章です

こじらせないdays 6日目

6日目

残念ながらあまり思考できていない。一日バイトだったから仕方ない仕方ない。更新も諦めかけていたが、この時間になって逆に目が冴えてしまった。早く寝たい。

 

とここまで書いて寝落ちしていた。

だが、せっかく6日目まできたので一応更新する。そもそも日付上は問題ないからこんな前置きもいらないのだけれど、私の気持ちの中では「一応」なのだ。できれば深夜に更新したかった。どんなに眠くても。

 

一度途切れたことを始めるのがなんだか辛い。今、この文章を書いている瞬間も胸がざわざわしている。

"5回もちゃんと更新できたのに"

心のどこかでそう思っているのかもしれない。

 

そもそもブログを再開することも大変だった。何度かまた書こうと思ったことはあった。しかし、毎週更新をうそぶいていたクセにつづけられなかった事実が、じりじりと痛んでうまく書けなかった。

はじめたのにどこかでサボってそのまま、ということがたくさんある。ブログ、日記、勉強、誰かとのLINE、たぶんもっとたくさん。なぜ気軽に再び始めることができないのか。なぜこんなにも腰が重く、胸がうずくのか。

 

完璧主義だと言われたことがある。自覚はあるようでない。適当で、大雑把で、感覚的で、勢いとノリ任せばかりで、そんな私が完璧主義などおこがましい。今でもそう思う。

一方、どこかで汚点を見せてはいけないと思ってる節もある。自慢じゃないが、基本スキルは高い方であると思う。特に何もしていないが、なんとなくできてしまうことがそこそこある。でも、一度うまくいかなかったことはもうやりたくないと思ってしまう。辛いことはなるべく逃げようとしてしまう。それに立ち向かうエネルギーがないからだ。失敗の恥をかくくらいなら、適当なところでやめておいたほうがいい。そう思っている。

 

じゃあこれは誰のためにやっているのか。私がやりたくてやってることじゃないのか。わからない。

ブログなど謎だ。全世界に発信してるクセに、内容は極めて私的だ。こんなものを人に見せて何になるのか。備忘録なら日記でいいのではないか。わからない。

でも、今の私はやりたいからやっている。誰かのためではなく、私のために。心の掃き溜めと変わらない。でもそれでいい。それが今の私のやりたいことだから。

 

 

7日目である今日は何もなかった。でも何も考えていない。ただ寝ていた。もう悪びれない。

これから私は伝えるため思考をする。深く、深く、めんどくさいぐらいに。そして、素直になろうと思う。

 

最終総括的な文を書くかもしれないし、全く関係ないことを書くかもしれないけれど、ブログは細々と続けようと思う。私のために、ね。

もしよろしければたまに見てもらえると、これ幸いである。じゃあ、また今度。

こじらせないdays 5日目

5日目

私はわりとめんどくさがりなタイプである。挙げればきりがないほど、色々なことをめんどくさがっている。そのせいで何かをやっていない罪悪感によく駆られる。多くの人に共感してもらえることだとは思うが、つい後回しにしてしまうアレである。

そんな私だが、思考に関してはいくら考えようとめんどくさいとは思わない。むしろ、色々なことを考えすぎて、自分の考えとして言語化できないことがよくある。めんどくさがりなのに、他から見てめんどくさいぐらいの思考を、めんどくさがらずにしている。ゲシュタルト崩壊しそうなめんどくさい文章だ。

しかしこう考えてみると、自分のことだがさっぱり訳がわからない。身体を動かさないからだろうか。多分そんな単純な話じゃない。

 

思考を張り巡らせる事は嫌いじゃない。むしろ好きだ。ただ考えすぎで辛くなることも多い。行き着く所が先の見えない暗闇であることが少なくないからだ。ここ最近は暗い方に行きにくい時期でもあり、そうなりそうな時は「めんどくさい」を合言葉に思考を断ち切っている。常にそうありたい。

要するに、ポジティブシンキングと、客観視さえできれば私の思考は長所になりうる物なんだと思う。

 

でも、不安じゃん。相手の気持ちなんてわからないんだもの。これがめんどくさい私。いつかバイバイしたい。やっぱ、まだ無理かも。

明日につづけ。

こじらせないdays 4日目

4日目

今日のはじまりも夢だった。中学の時の恩師が出てくる夢だった。細かい内容は忘れてしまったが、とても幸せなものだったと覚えている。

その方にはすごくお世話になったのに、離任の際に話をすることも、お礼を言うこともできなかった。あれから5年以上経ったが、私にはたくさん伝えたいことがある。離任式の日、お礼が言えなかっただけで、私は貴方に縛られている。

 

何か小さなことが、これからの人生の後悔の種子になりそうで怖くなる。だから、やる前からたくさん考えてしまうし、やってしまったこともクヨクヨ悩んでしまう。その根元がおそらくこの経験にあるのだと思う。だから私は、今できる最善の方法で最大の気持ちを伝えたい。まあ、それがすぐにできれば苦労しないんだけれど。

 

現実では母校の卒業式があり、懲りずにまた顔を出した。とはいえ卒業生と交流するわけでもなく、1年ぶりに会った先生とたくさんの話をしていた。

先生の話し方に懐かしさを覚えながら、色々な考え方があって、色々な事情があって、それらを考える必要があると改めて感じた。もしかしたら、実は先生の思考もめんどくさいのかもしれない。でも、私はたくさんのことを考えてくれている先生を素直に尊敬したし、そういう考え方がきちんとできる人間になりたいと思った。

結局、自分の場合は悪いことばかりを考えてしまい、それがこじらせ思考につながっているのだろう。自分のことだと冷静になれない。まだまだ子供だと思う。

 

先生と「めんどくさい」について少しだけ話をした。めんどくさいにも色んな種類があるが、大きくまとめると自分にとって受け入れられない人はめんどくさい人になるらしい。そもそもめんどくさいは自分の感情であるわけで、めんどくさい人って言うのかよ、めんどくさい人ってなんだよ、と思った。でも、今の私はめんどくさい人間にならないためにこんなブログを書いている。矛盾だ。めんどくさいって思われないように、そう考えること自体意味がないのかもしれない。

私のめんどくさいは私の中にしか生まれないし、相手のめんどくさいも相手の中にしか生まれない。だからわかるわけがない。そんなことを気にするのは、めんどくさいというより、意味がない。なんとなく、気づいてしまった、かも。脱めんどくさいできるかな。

 

今日はたくさんしゃべったし、考えたし、感じたし、それに楽しかった。いい日だ。あと3回。また明日。

こじらせないdays 3日目

3日目

こじらせないようにしているおかげなのか、それともただの周期なのか。どちらにせよ、いま素直に幸せを感じることができているなあと思えている。素直だと思考も軽くなるようで、自然と前向きでいられた。結局考えてしまっているわけだけど、深くないし、暗くないし、これならきっとセーフ。それに、そうやって想っている私は幸せだ。間違いなく。

素直でいることって、心が穏やかでないと難しいと思う。後ろ向きな時も無理だし、意固地な時も無理だし、なかなかに大変だ。ましてや、天邪鬼な私では尚更だろう。幼子のような無垢な心でいたい。成人を目前にしてそう願うなんて思ってもみなかった。

 

早く大人になりたい。早く独り立ちしたい。ずっとそう思っていた。今も思っていないわけではない。とはいえ、将来について考えるのが不安で、夢もなくて、ずっと学生というモラトリアムが続けばいいと、大学に入った私は思ってしまった。高校の時とは大違いだ。早く社会に出て人の役に立ちたい。そう意気込んでいた彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。今の私は、次の時間割を組むことですら悩んでいるというのに。ずっと憧れていた一人暮らしも現実問題を考えると尻込みしてしまい、独り立ちには程遠い。いつからこうなってしまったのだろう。

 

「今を生きろ」なんてよく言うけれど、今じゃ「もっとちゃんと将来のことを考えろ」って怒られることの方が多くて。「夢を見ろ」なんてよく言うけれど、実際は「現実を見ろ」って言われることの方が多い。矛盾してるけど、多分ほんとはどっちも大事で、どっちもやらなきゃいけないことなんだろう。でも、不器用な私にはなんだかそれが難しい。今を生きたいのに、夢を見たいのに、将来のことを考えてない自分に嫌気がさし、現実に向き合っては辛くなる。ただ、能天気に幸せを感じていたいだけなのに。手先も人生も器用でありたい。

 

明日につづく。

こじらせないdays 2日目

2日目

幕開けは夢だった。夢に出てきた。夢でもこじらせていた。起きた瞬間、自嘲するほかなかった。でも、夢の中の私はたまらなく愛おしい存在だったと今は思う。

今日も考えないことは無理だった。私の場合、歩いている最中に考え事をするので、その時間が一番ネックだと気づいた。みんな、歩いてる最中ってどうしてるんだろうか。無心なのか、やはり考え事をしているのか。一年前の私が何を考えて歩いていたのか、驚くほど思い出せない。何か他に考える事柄ができれば良いのだけど。

私の場合、根っからのこじらせは、思考の隅々まで渡っている。どんな物事を考えるときも、だいたいこじらせる。だから面倒くさい。しかし、どこまでがめんどくさい思考で、どこまでが正常な範囲内の思考なのか、その線引きがわからない。この考え方もおそらくめんどくさいのだろうが、アウトの基準が明確であってほしいと思うのは悪いことではないだろう。とりあえず「でも○○かもしれない」、「なんで○○なのか」といったあたりがこじらせを象徴しているフレーズだと考えついたので、ここには至らないように努めることにする。

 

話は変わるが、久しぶりに母校へ行った。先生と呼ばれる立場の人と話すことも久しぶりで、なんだか感慨深かった。「お前ならできる」という私には根拠を感じられない励ましに懐かしさを感じたり、今の私を肯定してもらったりして、なんとなくだけど前に進めるような気がした。

今の私でも、いいんだ。エンジンかかるまで、待てばいいんだ。

(こういう思考って、鬱モードに入ると考えられないのが不思議。そういう時にどうやって抜け出すかは課題だ。それすらも認めてあげれば良いのだろうか。)

 

あと、普通の女子大生を少し羨ましく思った。インスタにご飯をあげたり、制服ディズニーしたり、スタバの新作に並んだり、そんな感じの女子大生。"普通"とくくるのもどうかと思うところはあるが、きっと彼女らは、素直にそれらを楽しんでいるんだろう。やる事が義務になっているところもあるのかもしれないが。でも、きっと素直に受け入れて、楽しむ事ができる土壌があるのだと思う。それを羨ましく思った。妬んだり、穿った目で見たり、無理に天邪鬼になるのはよくない。「素直に」多分それが大事。そして、それも私にかけている。足りないものばかり。そんな自分も肯定してあげたいけれど、果たしてそれは逃げなのだろうか。

と、この段落、すべてがめんどくさい話だ。やっぱり、多分直らないのかも。どう付き合っていくか考えたほうがいいのかも。弱気。

 

今日は遊んだので比較的多めで雑多。

乱文上等。また明日。

 

こじらせないdays 1日目

久しぶりの更新がこんな内容でいいのか、と思わなくもないが、自分のために更新する。

 

訳あって、ある事項についてのめんどくさい考え方を1週間自粛することにした。根っからのこじらせである私。変わるのは無理、と言われたし、その通りだとも思うが、とりあえずのチャレンジといった感じである。

 

1日目。

初日にして100%考えない、というのは無理だった。昨日の決意も含めて、色々考えそうになり、その度に「はい!面倒くさい!やめ!」と自分で打ち切ることの繰り返し。でも、深みにはハマらなかったと思っているし、無理にでも打ち切ることで多少は軽い思考になっているように感じた。まあ、まずまずだろう。素直に褒める。

ただ、深く考えてないとはいえ、頭の中からは消えてくれず、自分がいかに暇で、熱中することがないのがわかる。やっぱり趣味はあるべきだと思う。

結局、考えないようにする=考えないことを考えている訳で、無心にはなれていない。書いていて、この思考自体めんどくさいと思った。さすが根っからのこじらせ、としか言えない。初日から負け越しだ。どうなるのやら。

 

明日につづく。

 

 

少しの寛容と前進

『注文を「忘れる」料理店 ふしぎなお店が目指すものは』

https://news.yahoo.co.jp/byline/mamoruichikawa/20170604-00071670/

この記事を見た時、なんとも心が温かくなった。と、同時に、世の中こうなればいいのにな、の気持ちが詰まっている。

 

「私たちがほんのちょっと寛容であることで解決する問題もたくさんあるんじゃないか。」

 

普段、些細なことで私たちは相手に対して不寛容になってしまう。口うるさい両親、朝の通勤電車、先生、上司、エトセトラ。でも、「まあいっか」と思えた方が人生楽しい。たぶん。

 

とはいえ、不寛容が生み出すパワーは大きい。それは正の方向にも負の方向にも。全てが「まあいっか」で済まされてしまうと、前進はない。「これじゃダメだ」が時には必要で、でもその気持ちだけだと、多分よくない。「これを直すんだ!」という気持ちと、たくさんの行動があるべき。でもそれをやるのはすごくエネルギーが必要。

それをできる人間にならなきゃいけないな、って思いはある。思いはあるけど、なんだかピンとこない。元々行動力がないんだろう。いや、つけなきゃいけないんだけど。穴があったら埋まりたい、そんな性格。でもその穴が見つからなくて、見つけたいとも思ってないのかもしれない。

 

うーん、前に進まなきゃいけないのに。うーん。