とりあえず生きる

誰の得にもならない文章です

こじらせないdays 2日目

2日目

幕開けは夢だった。夢に出てきた。夢でもこじらせていた。起きた瞬間、自嘲するほかなかった。でも、夢の中の私はたまらなく愛おしい存在だったと今は思う。

今日も考えないことは無理だった。私の場合、歩いている最中に考え事をするので、その時間が一番ネックだと気づいた。みんな、歩いてる最中ってどうしてるんだろうか。無心なのか、やはり考え事をしているのか。一年前の私が何を考えて歩いていたのか、驚くほど思い出せない。何か他に考える事柄ができれば良いのだけど。

私の場合、根っからのこじらせは、思考の隅々まで渡っている。どんな物事を考えるときも、だいたいこじらせる。だから面倒くさい。しかし、どこまでがめんどくさい思考で、どこまでが正常な範囲内の思考なのか、その線引きがわからない。この考え方もおそらくめんどくさいのだろうが、アウトの基準が明確であってほしいと思うのは悪いことではないだろう。とりあえず「でも○○かもしれない」、「なんで○○なのか」といったあたりがこじらせを象徴しているフレーズだと考えついたので、ここには至らないように努めることにする。

 

話は変わるが、久しぶりに母校へ行った。先生と呼ばれる立場の人と話すことも久しぶりで、なんだか感慨深かった。「お前ならできる」という私には根拠を感じられない励ましに懐かしさを感じたり、今の私を肯定してもらったりして、なんとなくだけど前に進めるような気がした。

今の私でも、いいんだ。エンジンかかるまで、待てばいいんだ。

(こういう思考って、鬱モードに入ると考えられないのが不思議。そういう時にどうやって抜け出すかは課題だ。それすらも認めてあげれば良いのだろうか。)

 

あと、普通の女子大生を少し羨ましく思った。インスタにご飯をあげたり、制服ディズニーしたり、スタバの新作に並んだり、そんな感じの女子大生。"普通"とくくるのもどうかと思うところはあるが、きっと彼女らは、素直にそれらを楽しんでいるんだろう。やる事が義務になっているところもあるのかもしれないが。でも、きっと素直に受け入れて、楽しむ事ができる土壌があるのだと思う。それを羨ましく思った。妬んだり、穿った目で見たり、無理に天邪鬼になるのはよくない。「素直に」多分それが大事。そして、それも私にかけている。足りないものばかり。そんな自分も肯定してあげたいけれど、果たしてそれは逃げなのだろうか。

と、この段落、すべてがめんどくさい話だ。やっぱり、多分直らないのかも。どう付き合っていくか考えたほうがいいのかも。弱気。

 

今日は遊んだので比較的多めで雑多。

乱文上等。また明日。

 

こじらせないdays 1日目

久しぶりの更新がこんな内容でいいのか、と思わなくもないが、自分のために更新する。

 

訳あって、ある事項についてのめんどくさい考え方を1週間自粛することにした。根っからのこじらせである私。変わるのは無理、と言われたし、その通りだとも思うが、とりあえずのチャレンジといった感じである。

 

1日目。

初日にして100%考えない、というのは無理だった。昨日の決意も含めて、色々考えそうになり、その度に「はい!面倒くさい!やめ!」と自分で打ち切ることの繰り返し。でも、深みにはハマらなかったと思っているし、無理にでも打ち切ることで多少は軽い思考になっているように感じた。まあ、まずまずだろう。素直に褒める。

ただ、深く考えてないとはいえ、頭の中からは消えてくれず、自分がいかに暇で、熱中することがないのがわかる。やっぱり趣味はあるべきだと思う。

結局、考えないようにする=考えないことを考えている訳で、無心にはなれていない。書いていて、この思考自体めんどくさいと思った。さすが根っからのこじらせ、としか言えない。初日から負け越しだ。どうなるのやら。

 

明日につづく。

 

 

少しの寛容と前進

『注文を「忘れる」料理店 ふしぎなお店が目指すものは』

https://news.yahoo.co.jp/byline/mamoruichikawa/20170604-00071670/

この記事を見た時、なんとも心が温かくなった。と、同時に、世の中こうなればいいのにな、の気持ちが詰まっている。

 

「私たちがほんのちょっと寛容であることで解決する問題もたくさんあるんじゃないか。」

 

普段、些細なことで私たちは相手に対して不寛容になってしまう。口うるさい両親、朝の通勤電車、先生、上司、エトセトラ。でも、「まあいっか」と思えた方が人生楽しい。たぶん。

 

とはいえ、不寛容が生み出すパワーは大きい。それは正の方向にも負の方向にも。全てが「まあいっか」で済まされてしまうと、前進はない。「これじゃダメだ」が時には必要で、でもその気持ちだけだと、多分よくない。「これを直すんだ!」という気持ちと、たくさんの行動があるべき。でもそれをやるのはすごくエネルギーが必要。

それをできる人間にならなきゃいけないな、って思いはある。思いはあるけど、なんだかピンとこない。元々行動力がないんだろう。いや、つけなきゃいけないんだけど。穴があったら埋まりたい、そんな性格。でもその穴が見つからなくて、見つけたいとも思ってないのかもしれない。

 

うーん、前に進まなきゃいけないのに。うーん。

もやの中で

日付が変わってしまったが、更新。

高校の先生とか友人には、モヤモヤのまま色んな話しをしてきた。自分の考え、不思議なこと、納得いかないこと、不満、悩み、いろいろ。
でも、大学の教授にはなんか恥ずかしくてできない。本質を捉えるようなことを言わなければならない。人と違った視点から物事を言わなければならない。そんな焦燥感にも似た不安によく襲われる。

 

高校までの良い子、と、大学、ひいては社会に出た時の良い子は全く違うと思う。
高校までの良い子は、授業を真面目に聞いてる子、きちんとノートを取っている子、質問をしたら的確な答えを言ってくれる子、エトセトラ。個人的には、一番最後のものが大きな比重を占めていると思う。
大学や社会での良い子は、賢い子、他とは違った子。賢い子は、問題の核をつかめる子。最近の新卒のような人は、課題に対応する能力は高いが、自分で課題を見つけられない人が多いらしい。だから、自分で問題を見つけられて、しかもそれが本質を捉えているとなお良い、というわけ。他とは違った子は、もっとわかりやすくて、個性的な人。他の人とは違った考え方ができたり、独創的なことができたり、そんな感じ。

 

ありきたりな話ではあるけど、今までは求められてる答えに気づけるかどうかだったのに、自分で問題を見つけられなきゃだめだって言われて。今までは協調性ばかりを求められてきたのに、人と違う所を求められて。

 

別に、だから今までの教育はだめなんだ、とか、そういう風潮の社会は間違ってる、とかは思わない。ただ、少なくとも今の私は、今までの教育での良い子から全く抜け出せていない。多少賢いと思ってた。でも、それはどこかで「こういう答えを望んでるんでしょ」と思える答えを、さも自分で考えたかのように表現してるだけなんだと思う。
前に読んだ本で、自分で考えてみよう、と問われてる箇所があった。この本ではこれまでこういう事が述べられていたから、きっとこんな感じのことが答えじゃないか、と思ってページをめくると、本としての解答例とまさしく同じであった。その時は苦笑したが、型にはまった良い子を典型的に表していた事だった、と今更思う。

自分の頭で考えていないわけじゃない。でも、聞く側がいる、ということは、想定された答えがあるということだ。多分、私はそれを読み取るのがうまいんだと思う。だからそれがない時、私は何もできなくなる。
きっとそんなはずはない、と自尊心のかけらが叫ぶ。でも、少なくとも今の私はそんな感じ。卑屈とかではなく、真っ当な自己分析。

 

結局、何が言いたいのかというと、勉強しなさいよ、ってことなんだけど、私はこれから求められる良い子になれるのだろうか。なんだか先が暗い。

抽象と個別

「抽象化」「一般化」こういう言葉を聞いて、あなたはどう思うだろうか。

 

私はこの言葉も考え方も好きじゃなかった。
「最近の若者は…」とか、「日本の景気が…」とか、よく言われるけど、それらは個別性のない巨視的な視点のみで語られている。個々の事柄から概念を抽出して、それを一つの言葉や現象として表す。このことは大きな流れを理解するのにとても便利だし、イメージを共有しやすい。それでも抽象化することで個別性を捨象することが私は嫌だった。一人一人には確かに個性があるのに、いろんな人が様々な感情を抱いているのに、抽象化されたモノには残らない。それがとてつもなく嫌いだった。

でも、抽象化されたものと、個別のものは、必ずどこかで結びついている。個別がなければ抽出はない。抽象があれば個別が必ずある。その、結びつきが今まで私は全く感じられなくて、抽象化は個別を捨てるだけのものでしかなかった。これからは、そのつながりを見失わないようにしなくてはならない。

 

世の中、抽象だらけだけど、個別を見失わず。でも、個別を見るだけでなく、全体の中での個別の位置を知る。その関係性も社会学的想像力。

 

社会学的想像力、奥が深いのか、似たようなことの言い換えなのか、まだまだつかめない。今までの話もほとんどが大学の講義の受け売りである。自分がどう考えるか、どう活かしていくか、これから向き合っていこう。

6月の目標

早いものでもう6月である。先月は無事に毎週ブログが更新できたので、ひとまず及第点。内容も充実すると良いのだけど、意外と文章を打つ気がおきない。そして、うまくまとまらない。記事を書くことを生業としてる人を改めて尊敬した。もしかしたら、ずっとウンウン唸っていればかけるのかもしれないが、そんな時間もいかないのが悲しきかな。まあ、学生の身であるから仕方ないわけだが。
そうは言いつつ、相変わらず無駄な時間が多い。意味のないSNSチェック、意味のないネットサーフィン。これを書いてる最中も見た。有意義に使うのみにとどめたいのは山々だが……。ともかく、これはどうにかして改善していきたいものである。

 

そんな風に、改善していきたいことはたくさんある。できるかどうかはともかく、意思を明確にすることもいいかなと思うので、「今月の目標」という形で意思を掲げていく。

 

・寝る前にその日の事を振り返る
・課題(予習)は前日までに終わらせる
・レポートは印刷前に見直しする
・自分から積極的に挨拶をする
インターンに申し込む
・布団で必要以上にスマホをいじらない
・ブログを最低週1で書く
・疑問や考えた事を見返せるように残す
・物事の根幹を考える
・とにかくシンプルに!

 

詰め込みすぎた気もするが、これらを目標に今月も生きていこう。

遠いようで、近い話

何かを"面白い"と思えることは大事らしい。この"面白い"は、お笑い番組を見てゲラゲラ笑うようなことではなくて、ガリレオの湯川先生が「実に面白い」って言っちゃうようなこと。つまりは、interestingなこと。

何か、っていうと漠然なので、「勉強したこと」、「授業で知ったこと」に置き換えてみる。
ただただ話を聞き流すだけじゃなくて、何か面白いなって思えること。それについてたくさん考えたり、調べたり、そうやって学んでいくのだと思う。


時に、興味を持てないこともあるだろう。それはアンテナの張り方の違いによるものだから、しょうがないと思う。でもアンテナがたくさんあればあるだけいいと思う。どうやったらアンテナが伸びるか、まだまだ不思議なのだけれど。

 

何か、は「社会の出来事」にも置き換えられる。
でも、社会の出来事だと、"面白い"じゃない感情を抱くことの方が多いのかもしれない。かわいそうとか、こわいとか、ひどいとか、遺憾だとか、社会の出来事なんでそんなことばっかり。そういう感情って、もしかしたら無関心と紙一重で、その感情から先には何も変わらないんじゃないかなあ、と思う。
"面白い"というには不謹慎なことももちろんある。でも関心を持っている人は、心のどこかでは、その出来事を知ることでワクワクする感情があって、考えたり、調べたりしている気がする。

 

この"面白い"アンテナ、これもある意味「社会学的想像力」だと思う。
前提の話を避けて、書きやすいところから書いた結果、意味が通じるのか不安になってきた。きっとそのうち詳しく書きます。

 

さて、5月が終わる。結局まだ前に進めてない。1歩。なにか1歩を踏み出す。来月の目標。