「愛してる」の響きだけで、人は強くなれるのか
有名な歌詞だ。だけど、夢の中の言葉のように思う。
君がいるだけで心が強くなれるとか、君を守るために生まれてきたんだとか、愛してるの響きだけで強くなれるとか、それって本当なんだろうか。
自粛期間中、人と会うこともなく、自己成長に励む訳でもなく、ただただ日々を消化していた。就活にも力が入らず、なんとなく、ただなんとなく現状へのどうしようもなさだけを感じていた。
前々から言っているように、自分は何かに向けて頑張ることが不得手な人間だと思っている。それがこの期間に改善されるわけでもなく、遺憾なく発揮されたというだけのことだ。別にどうということはない。多少の情けなさは感じるけれど、結局そんなもんなんだと思う。
最近は少しずつだが情勢が変わり、人と会う機会が生まれてきた。後ろめたさもなく、人と会えるということが、ただただ嬉しく思えた。
そうやって誰かと会う約束をしていた時、あるトラブルが起きて一人で待たされることがあった。なんで今日に限って。と思ったが、仕方のないことだったので大人しく待った。
待ってる間、相変わらず私はだらだらしただけだった。ただ一つだけ、もし何もなければ今頃は楽しくおしゃべりしていただろうになあ。と、切ない気持ちを抱えて。
そんな時、ふと思ったのだ。
私は、誰かといる時には強くなれるのかもしれないと。正確には、誰かの前では強い自分であろうとできると。
それはただの見栄かもしれないし、強がりかもしれない。外側だけ良くしても、中身は空っぽで内実が伴わないままでしかないのに。結局「強い私」は空虚な妄想の産物でしかないのだ。
でも、それでもいいのかもしれない。たとえ空虚な妄想だとしても、強くあろうとする私が確かに生まれているのだから。
「愛してる」の響きだけで、私は強くなれない。
でも、私はそう言ってくれる誰かの前では強くいよう。そんな風にちょっぴり思える気がした。
諦めるということと、認めるということと
かつて、自己肯定感についてのことを書いていた。今振り返ってみるとと自己認識と他者認識がメインテーマだったと言えるかもしれない。その観点でいうと、今回は自己認識の話から始めてみたいと思う。
自分の欠点は、どう認識するべきなのだろうか。
最近、私は自分自身のある欠点に気付いた。それはもしかすれば人として致命的な欠陥なんじゃないかと思えるほどだった。私のその欠点は、考えれば考えるほどシステムの異常としか言いようがなかった。原因は分かっていても、今更どうしようもなかった。直したいけどすぐには直せない、そんな異常に気付いてしまった。
「異常」という言葉を安易に使うべきではないと思う。正常が本当に多数派なのか、本当に正しいのか、私には定かではない。そんな曖昧な正常に対しては、異常こそ正常かもしれないし、正常こそ異常かもしれない。正常も異常も不確かだ。
だけど、私はあえてこれを異常と呼びたい。それは私にとって由々しき問題であり、改善すべきであると思うからだ。とはいえ、これはあくまで自己認識であり、他者から見れば大した問題ではないのかもしれない。でも、私には異常と思えるこれを、なぜ大した問題ではないと思えるんだろう。
仮に、これがやはり異常であるとして、それでも大したことないといえるのはどうしてだろう。それを含めた私をどうして受け入れられるんだろう。
私は、存在を認められても、直すことを諦められないと思う。直せるなら直したい、でも直らない。だから辛くなるのだと思う。これをやめて、認めて受け入れれば楽になるのだろうか。
他者には直すことは不可能だろう。個人の問題だし、自分が相手なら直すなんておこがましいと思う。もしそうであるならば、他者は直せないからせめて受け入れるのだろうか。
自分対自分と、自分対相手ではこんなにも違う。それは自分も相手もそう。そして、その相対する時のやり方も人それぞれだろう。難しいなと思う。
最後がやけに幼稚だけど、みんなも難しいと思ってるのなら、私は救われるかもしれない。
目標とやら
備忘録として。
新年、新年度、誕生日、上半期、下半期、何かの節目につけて目標をつけることがある。
例に漏れず、去年は私も目標を立てていた気がする。でも、年が終わろうとする頃には、さて年始に立てた目標とはなんだったけな、となっていた。(去年のFacebookの投稿を見て思い出したが、そのレベルで忘れていた)
もちろん、きちんと目標を定め、それが叶うよう意識したり、努力したり、そうやって生きていける人がいることを知っている。しかし、残念ながら私はそういう人間ではないようだと、改めてよくわかった。
目標とは、いま達成できていないことを掲げ、それを達成することを目的として存在する。もちろん、仮に目標が達成されなくても全く無意味ということはなく、プロセスそれ自体や経験を通して得られるものがあるはずだ。また、目標とは永遠不変のものでもなく、その時々で移り変わっても構わないものだろう。高すぎる目標であれば、少し下方修正を加えてもいいだろうし、簡単すぎる目標であれば、さらに高みを目指しても良い。そうやって以前の自分からより高次な自分へと、目標を通して変化していくことが可能になる。
でもそれは目標が念頭にある場合の話で、忘れてしまってはお話にならない。残念、わたし。
とはいえ、言い訳するわけではないが、去年の目標はとても抽象的なものだった。日頃から意識するには難しすぎたのかもしれない。
だから今年はもう少し具体的で、普段生きていくときにふと思い出せそうなことを目標にしようと思った。
最初はどうせできないだろうから、あえて目標を立てることもないなと思っていた。一年後の苦い気持ちが一つ増えるだけだと。でも、できないといって放棄するのではなく、できなくてもいいから考えてみたくなった。
きっかけはよくわからない。ただ、こうやって生きられたらいいなと思った。それだけだ。
今年の目標は
「素直に生きること」
「色んなことを受け止めること」
明確なゴールがある事柄ではないので達成するというのは難しいかもしれない。でも、せめて今年が終わるまで忘れないでいられたらなと思う。
将来ってなんだ
新年になった。ずいぶんと先だと思っていた東京オリンピックはもう7ヶ月後には始まる。こんな風に「ずいぶんと先」が、もはや「すぐそこ」まできている。私の「将来」とやらも。
大学4年になり就職活動が本格化する。就活をして内定をもらってしまえば、今まで描いていた「将来」が現実になる。小学校の頃に書かされるような将来の夢が、もはや夢ではなくなり、叶った、叶わなかったという単なる事実になってしまうのだ。これは果たして希望なのだろうか、それとも絶望なのだろうか。とはいえ、明確に将来の夢を持っていて、それに向けて努力をしたという人は、おそらく少数派だと思うけれど。
だからといって、そうでない人に将来がないわけじゃない。その他の人が描いている将来とは、今の自分の想像の範囲内で、今の自分の選択可能な道の中で、こうしたいという理想なのではないだろうか。それを叶えるために必死に就活を行うのではないだろうか。
私には将来の夢はなかった。あったかもしれないけど忘れたし、それに向けて努力もしなかった。たとえほんのりやりたかったことでも、自分に合わないと思うことは、粘ることもしがみつくこともせずただ諦めた。
数学ができなかったから文系になったし、国公立大学の受験もやめた。無理に頑張りたくなくて、教職の授業もやめた。資格の意味もよく分からないから、特に何もとってない。
とことん私は何かに向けて頑張れない人間だなと思う。でも、何もかも頑張れないわけではなくて、すべきことに対してはきちんと頑張っている。振り返ってみると、私はすべきことを見つけて、そこにハマるのが性に合っているらしい。
じゃあ、社会の中で私がすべきことってなんなんだ。そこがいつもわからない。いまも私の「将来」はあやふやだ。
やりたいことも特にない、すべきことも見つからない。でも、私は生きなければいけない。生きなければいけないのだ。
私はこれからどうやって生きようかしら。それはまた別の話で。
言葉にすること
お話をするのが苦手だ。おそらく普段の私を知る人は意外に思うかもしれないが、スマートさとは程遠く、大して面白くもない話をよくしてしまう。個人的には、文章の構成を組み立てるのが下手なんだなと思っている。昔から作文は嫌いだし、こうしてブログを書いてはいるが自分の文章はどうも好きになれない。
書いた言葉と違って、言ったことはパッと現れて、次の瞬間には消えている。だからといって何も残らないものかというと、聞いた相手はその言葉に強く拘束されることがままある。
言葉は暴力的だと思う。ときに、言葉は物理的なものよりひどく残酷であり、ひどく人を傷つけ殺すこともできる。寺山修司も似たようなことを言っていた。言葉で誰かを傷つけたい、なんて人は少ないだろうが、誰かに影響を与えたい人はいる気がする。しかし、そういう人は、良い影響だろうが悪い影響だろうが、その人に傷をつける覚悟があるのだろうか。
"影響を与える" という責任は重い。大きさは様々あれど、人生を180°変えることだってありうる。自分の放った一言が、その人を捉えて離さなくなることだってある。人はそれを押し付けというかもしれない。あるいは、束縛というかもしれない。わたしはそれが怖いのだ。
いつからだろう、人の話に対して、「いいんじゃない?」という言葉をよく使うようになったのは。なにを適当な、と怒る人もいるだろうが、その反応はもっともだ。わたしは、その人の何かに意見することを恐れているのだと思う。
仮に、自分だったら絶対にとらない行動があったとする。しかしそれはあくまで私の中の価値観の話であり、その人の中の価値観ではそうではないかもしれない。というか、そうではないからそういう選択肢を選んでいる/選ぼうとしているのだ。それを私がとやかく言う資格はないし、その後に対する責任なんて持ち合わせていない。だからわたしはその人を肯定するフリをして、距離を置く。これもあくまで私の中の価値観における考えであって、なにそれとなる人も大勢いることを知っている。
真摯に人の悩みと向き合い、導こうとする人間がなんと多いことか。"絶対○○するべきだよ" なんて、なにを根拠に言えるのか。でも、そういう人がいなければ、きっとこの世は迷える子羊だらけなんだろうなと思う。
この文章は何にもならないし、なってはならないと思う。でも、こうやって人目にさらすことで、誰かの何かになるのかもしれない。結局わたしは、私の言葉が、誰かの枷になり檻となることを心のどこかで望んでいるのだろう。
2018 ふりかえりのようなもの
怠惰の一年だった。やる気が起きない、何もやらない、ひたすら寝ていたい、そんな一年。良く言えばモラトリアムの謳歌、悪く言えばクズだなと思う。(そもそもこれを書くのすら全くやる気が湧かなかった)
なんとなく大学に通って、なんとなく話を聞いて、なんとなくバイトして、たまに部活して、そんな日々。高3の私が嫌っていた、なんとなくの大学生をやっている。
この書き出しから、つらつらと書いていたら途轍もなく暗い内容になっていた。
面倒くさい思考と、負のオーラ全開だった。
でも、寝て起きたらすこしだけ思考が前向きになっていたので載せることは見送る。、
怠惰な一年だったけど、何も考えてなかったわけではなくて、少しずつ考えている。自分のこととか、人間関係のこととか、将来のこととか。
来年は思考と実践を"頑張って"いきたい。
バイトも、大学も減らして、新しいことでも始めようかな。ちゃんと読書もしなきゃな、文章も書かなきゃな。なんて、毎年恒例の達成されない抱負を今年も語る。
一つだけ。
頑張るって、難しいなと。
頑張るとは、あることをなしとげようと、困難に耐えて努力する。ということらしい。つまり、具体的な目標とか意志とかがなければ、"頑張る"という行為は成立しないともとれる。
私は必死に生きてきたつもりだった。遅刻しないように通学してる、そこそこの成績をとって、バイトもやって、毎日疲れていた。ずっとずっと眠っていたかった。
でも、私は1ミリも頑張ってはいなかったのかもしれない。もちろん、場面場面で頑張っていたかもしれない。そんな風に切り捨ててしまうのは自分を否定することなのかもしれない。けれど、私はこの言葉に傷ついていない。だって、当然だなって。
人は傷つく時、期待や思い込みをしていて、それが裏切られた時に傷ができるんだと思う。私は、自分が頑張っているとも思ってないし、努力もしてない。だから傷つかない。
頑張る勇気が欲しい、力が欲しい。
満たされたように見える私に足りないものはなんなのか。
来年の私はどうやって生きていくのか。
どうしようね、私。
不幸せだと叫びたい
人生幸せな方がいい。きっとそう。
でも、ニコニコしながら「私は幸せです」と言う人をどう感じるかはまた別物だ。「私は不幸せだ」と笑いながら言えるくらいがちょうどいいと思う。
生きてりゃ負の感情が出ないわけがない。辛い、苦しい、憎い、エトセトラ。そうしたものを奥底にしまって、隠して、黙って、にこにこしているなんて、ひどく不健全ではないか。
負の感情を背負って、自分の性格の悪さもわかった上で、ああ世界はなんてめんどくさいんだって思いながら、それでも笑っていられる方がいい。